なんといっても、戦後いち早くヴェネツィアに観光都市としてのイメージを定着させたのは、デイヴィッド・リーン監督のアメリカ映画『旅情』(1955年作品)であろう。  オールド・ミス”(今どきこんな言葉も、死語になりつつある)のアメリカ女性ジェーン(キャサリン・ヘップバーン)が、ヴェネツィアで妻子あるイタリア男性(ロッサノ・ブラッツィ)と出会い、一夏のかりそめの恋におちいるというストーリーは、多くの女性の共感を得て大ヒットした。<BR>  サン・マルコ広場でのカフェの出会い、ジェーンが8ミリ撮影に夢中になった運河に落ちるサン・バルナバ広場、男が一輪のクチナシの花を持って別れを告げたサンタ・ルチア駅など、まさにヴェネツィア名所を網羅した定番中の定番観光映画だが、さすがに名匠リーン監督だから、単なる観光映画に終わらせなかったところがヒットした原因だろう。

 マルセル・プルースト(1871−1922)がヴェネツィアに限りないオマージュを捧げたのは、明らかにジョン・ラスキン(1819-1900)の影響である。

  “ココ”ことガブリエル・シャネル(1883-1971)が初めてヴェネツィアを訪れたのは、1920年、最愛の恋人であったアーサー・エドワード・“ボーイ”・カペルを失い、悲嘆で打ち拉がれていた時期であった。

 ブラームスが初めてイタリアを訪れたのは1878年、45歳の時だった。この時、初めてヴェネツィアにも訪れている。すっかり明るい陽光に魅せられた彼は、以来60歳となる1893年まで、生涯で9回もイタリアを訪れている。当初は、ウィーン大学教授で著名な外科医でもあった親友のテオドール・ビルロート(1829-94)と一緒であった。

 当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国内でのボヘミアのプラハで生まれた詩人ライナー・マリア・リルケ(1875—1926)にとっても、ヴェネツィアは思い入れの深いまちであった。年表を追っただけでも、彼は生涯に9度ほどヴェネツィアを訪問・滞在している。

 精神分析の父であるジークムント・フロイト(1856−1939)も、イタリアにかかわりの深い人物であった。『フロイトのイタリア』(平凡社刊・2008)を著した岡田温司氏は、「精神分析はイタリアで生まれた、とまでは言い切るのはさすがに勇気がいるとしても」という前提の上で、フロイトの思想と精神分析の理論の形成において、深くイタリアがかかわっていたとして同著の中で、彼とイタリアとの関係を論じている。比較的短い滞在まで含めると、優に20回を越えるイタリア訪問を果たしている。中でも、「1895年の最初のイタリア旅行がヴェネツィアだったというのは、おそらく偶然ではないだろう」と述べている。

 ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)もまた、ドイツの知識人の例に漏れずこよなくイタリアを愛した人であった。若くしてスイスの名門バーゼル大学の教授という要職に就き数々の名著を送り出しながら、1879年には病気のために37歳で同大学の教授の地位を退くことになる。その後は心身にとって良好な気候を求めて、ヨーロッパを転々とする日々が始まった。その結果、夏は涼しいサンモリッツ郊外のシルスマリアに、冬は温暖なジェノヴァやニース、トリノ、ソレントなどに滞在した。なかでも気に入ったのがヴェネツィアであった

 共和国崩壊後のヴェネツィアを訪れた人物の中でも、大きな影響力を持ったのはイギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン (1788-1824)ではないだろうか。男爵でもあった彼は、新妻との破局、異母姉との近親相姦というなんともスキャンダラスな噂によって、イギリスの上流社会からは疎外されてしまった。そのために母国を離れざるを得なくなり、ついには1816年4月、長い流浪の旅に出る。28歳の時である。

 1797年5月15日、ナポレオン率いるフランス軍がヴェネツィアに進駐して、ここに1000年以上続いたヴェネツィア“共和国”は崩壊した。このナポレオンによって滅亡された都市国家ヴェネツィアは、その後オーストリア支配となり、さらに再びフランス支配となるが、1814年ナポレオンの失脚にともない、ウィーン会議の結果再度オーストリア支配となる。そしてヴェネツィアは、ロンバルト=ヴェネト王国の一地方都市へと没落してしまったのである。

 ドイツの擬古典主義の詩人プラーテンの名を知る人は、今では少なくなっているだろう。アウグスト・フォン・プラーテン(1796-1835)は、生まれはハイネとほぼ同世代、亡くなったのはゲーテと同じ頃という人で、晩年(といっても30代だが)はイタリアに魅了され、同地に定住しシチリアで亡くなっている。とくに以下の『トリスタン』の詩が有名である。これまた若くして投身自殺した生田春月(1892-1930)の訳によって、一時期人口に膾炙した。

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