7)ニーチェのヴェネツィア

 ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)もまた、ドイツの知識人の例に漏れずこよなくイタリアを愛した人であった。若くしてスイスの名門バーゼル大学の教授という要職に就き数々の名著を送り出しながら、1879年には病気のために37歳で同大学の教授の地位を退くことになる。その後は心身にとって良好な気候を求めて、ヨーロッパを転々とする日々が始まった。その結果、夏は涼しいサンモリッツ郊外のシルスマリアに、冬は温暖なジェノヴァやニース、トリノ、ソレントなどに滞在した。なかでも気に入ったのがヴェネツィアであった。

 ニーチェが一時期ワーグナーに心酔していたことはよく知られているが、ワーグナーもまたヴェネツィアを好み、生涯に6回もこの地を訪れている。そして終焉の地もグラン・カナル沿いの邸宅ヴェントラミン・カルレジだったことは、いかにもワーグナーらしい最期だった。ワーグナーがニーチェをヴェネツィアに誘ったのだろうか。いや、そうではない。ワーグナーのヴェネツィア滞在3回目の1876年は、彼が生涯をかけて建設したバイロイト祝祭歌劇場が完成し、第1回のバイロイト音楽祭が開催された年でもあり、ニーチェはまだヴェネツィアに足を踏み入れてはいなかった。

 ワーグナーが、31歳下の若きニーチェに出会ったのは、186811月ライプチヒのことであった。それ以降、熱烈なワーグナー崇拝者となったニーチェに心を許し、その後トリープシェンの家にもたびたび招いていた。また、ニーチェがワーグナーの妻コジマにも、密かに心を寄せていたことがいくつかの手紙からも伺える。

 しかし、1876年になって、狭心症の保養のためにソレントに滞在していたワーグナーに再会し、それが彼らの最後の面会となった。この時期に書かれたニーチェからワーグナーへの手紙を見ると、「わたしは健康で生きたい」という主張を述べ、「私も来月にはイタリアにまいります。しかしそれも発端の国ではなく、私の苦悩の終結の国へ向かうように思われます。私の苦悩はふたたび頂点に達しております。」(1876927日バーゼルからヴェネツィア滞在のワーグナー宛『ニーチェの手紙』塚越敏訳・ちくま学芸文庫)と綴っている。

 確かに、この頃からニーチェは次第にワーグナーから離れ、批判的な論文を発表するようになった。ニーチェは、ワーグナーから『パルジファル』の台本を贈られても、『人間的な、あまりに人間的な』で、公然とワーグナーを批判し、ワーグナーもそれに反論するなどして、その後二人は相見えることはなかった。

 親しい友人だった音楽家のペーター・ガストがいるヴェネツィアを、ニーチェが最初に訪れたのは、大学を辞した翌年の1880年の3月であった。その月の13日から629日までの3ヶ月半を、墓場の島であるサン・ミケーレ島が望めるフォンダメンテ・ヌォーヴェの下宿を自ら探してきて滞在した。

 2度目のヴェネツィア滞在は、最初のヴェネツィア訪問から4年が経った1884年であった。すでに前年の18832月には、かつては親しく交際したワーグナーもこの地で亡くなっていた。死去の報に接して、コジマへ「あなたは過去において、いざというときに私の声に耳を貸すことを拒みはしなかった。いま・・・あなたはもっとも重大かつ深刻な経験に遭遇しているが、私はただひたすら自分の気持をすべてあなたに向ける以外に、感情の注ぎ方を知らない。私は今日、常にあなたをそう見てきたように、たとえ遠方からでも、私の心から尊敬する女性としてあなたを見ている」(『ワーグナーの妻コジマ』J.R.マレック著・伊藤欣二訳・中公文庫)と書き送っている。こうして、愛憎入り交じったワーグナーとニーチェの関係は永遠に終わった。

 

 2年前から知りあったルー・ザロメとの関係もまた輻輳していた。親友だった哲学者パウル・レーとの三角関係にも悩んだのである。彼がこの地を再訪した時期には、すでにこの関係も終わっていた。彼は、肉体と精神の癒しのために、この地を訪れていたのか。その効果があったのだろうか、ここで、彼は後に『曙光』と名付けられた「ヴェネツィアの影」を執筆している。

 

  「わが幸福!」

 聖マルコ聖堂の鳩たちをぼくはふたたび見た。

 広場は森閑として、午後が広場を包んでいた。

 柔かい冷気のなかに、ぼくは閑暇にまかせて

 歌を鳩の群れのように青空に放った。——

 そしてまた、その歌を呼び戻した、

 もう一つ次の韻をその歌の翼につけようと。

 ——わが幸福!わが幸福!

           (原田義人・訳 世界名詩集大成 7巻ドイツII 平凡社)

 この詩は、さらに3連続いており、そのいずれの末尾にも「わが幸福!わが幸福!」という詩句で締めくくられている。いかに彼が、このまちに「幸福」を感じていたかがうかがえる詩であろう。

 

 18854月には、妹のエリーザベト宛の書簡で「……いま僕が住みたいと思うところはヴェネツィア以外にはない」とまで言い切っている。

 このあと、1887年まで毎年春になる(1887年だけ9月から10月)と、ほぼ定期的にヴェネツィアを訪れている。この間に『善悪の彼岸』や、彼の思想の集大成ともいうべき『ツァラトゥストラ』などを完成させてはいるが、彼の精神と肉体が次第に蝕まれていった時期でもあった。

 その精神の炎が燃え尽きる直前の1888年に作った詩のなかでも、ヴェネツィアへの憧憬の念は変わらなかった。

 

  「ヴェネチア」

 このほど、ぼくは鳶色の夜のなかを、

 橋のほとりにたたずんでいた。遠くから歌がきこえてきた。

 金色の雫となって、

 歌は揺れる水の面に広がっていった。

 ゴンドラ、ともしび、音楽が―

 酔ったように黄昏のなかへ漂っていった。

 

 ぼくの魂は、琴の調べのように、

 目に見えぬ手にかき鳴らされ

 ゴンドラの歌がひそやかにそれに和した。

 華やかな浄福に打ち震えながら、

 ―この魂の歌に耳傾けた者があったろうか。

           (原田義人・訳 世界名詩集大成 7巻ドイツII 平凡社)

 

 「1889年1月6日、バーゼル大学の美術史家のヤーコプ・ブルクハルトは、北イタリアのトリノにいる友人ニーチェから届いた手紙を、同僚のオーヴァーベックに見せた。支離滅裂な内容だった。・・・ニーチェの親友オーヴァーベックは神経科の主任教授と相談のうえ、トリノに直行した。・・・病むニーチェをバーゼル経由でドイツに連れ帰った。・・・病むニーチェは声低く歌っていた。オーヴァーベックの知らなかった歌である。作曲もよくしたニーチェが、自作の詩に曲をつけたものだった。歌は凄絶なほど美しかった、という。」(小塩節『ブレンナー峠を越えて』音楽之友社)

 後にオーヴァーベックは、このニーチェが自ら歌った曲は前述の『ヴェネチア』の詩に曲をつけたものであったと記している。まさに彼が自ら歌った「白鳥の歌」であったのだろう。

 『わが幸福!』が、陽光あふれるヴェネツィアの昼を歌ったとすれば、『ヴェネチア』は、暮れなずむ夕暮れのヴェネツィアを歌っている。彼自身、これらを「対」にして創作したわけではないだろうが、ニーチェにおける光と陰を印象づける詩編である。

 

 ここで登場するヤーコプ・ブルクハルト(1818-1897)は、いうまでもなく『イタリア・ルネッサンスの文化』や『チチェローネ』を著したスイスの美術史家であり、ニーチェとは彼がバーゼル大学に赴任した時からの交友関係にあった。ブルクハルトもまた数次にわたるイタリア旅行の中でヴェネツィアを訪れて、数多くのヴェネツィア派美術の絵画やルネサンス建築を研究している。