ワーグナー〜癒しと哀しみのヴェネツィア

   リヒャルト・ワーグナー(1813-83)
   リヒャルト・ワーグナー(1813-83)

 フェニーチェ劇場で『シモン・ボッカネグラ』が初演された翌年の1858年には、ヴェルディと同い年のリヒャルト・ワーグナー(1813-83)が初めてヴェネツィアを訪問している。

 

 その前年から、ザクセン王国に国事犯として追われていたワーグナーを、チューリヒの自邸に隣接する“隠れ家”に匿ったのは、かねてからワーグナーの援助をしていた富豪のオットー・ヴェーゼンドンクであった。しかし、妻のミンナとも同居している中で、あろうことかオットーの妻であるマティルデと道ならぬ恋に落ちた。ワーグナーは、彼女に『トリスタンとイゾルデ』の散文台本を贈り、それに感動したマティルデは、その直後には自ら書いた5つの詩をワーグナーに贈ったのである。その5つの詩は、のちに『ヴェーゼンドンク歌曲集』として昇華される。まさに当時の二人を関係づけるかのような官能と憂愁に満ちた曲の一部は、『トリスタン』にも取り入れられている。

 しかしながら、そんな関係がいつまでも秘められておくはずもなく、やがて糟糠の妻のミンナの知るところとなり、マティルデも自らの感情を自制し、またそれを知った夫オットーとしても世間体をはばかる大人の対応で、結局、ワーグナーは一人、この“隠れ家”から出て行くことになった。1858817日のことである。

ミンナ・プラーナー(1809−66)  
ミンナ・プラーナー(1809−66)  

 チューリヒから去ったワーグナーは、ひとまずジュネーブに行き、そこから友人のカール・リッターを同行させ、ミラノを経由してヴェネツィアへと向かったのである。

 ワーグナーがサンタ・ルチア駅に到着したのは、829日の日没に近い時間であった。ここからゴンドラに乗って、ホテル・ダニエリへと向かった。彼は、初めてみる水の都ヴェネツィアの美しさに感動したが、一方でゴンドラの黒い色が不気味に映り、遺体を運ぶ葬列を想像させた。24年後、彼自身も、この地から自らの遺骸が黒いゴンドラに乗って運ばれるとは、予想だにしなかったに違いない。

 

 ダニエリで一泊した後は、カナル・グランデに面したカ・フォスカリの隣に建つパラッツィ・ジュスティニアンを借りた。ここは15世紀後半のゴシック様式の優美な建物群であったが、長い間空き家だったため室内の修復が必要だった。ワーグナーはここを改修し大運河に面したホールを居室として、ヴェネツィア暮らしをはじめた。

 その間、不倫のために心ならずもスイスから追われた未練からか、その相手のマティルデ・ヴェーゼンドンクに、『ヴェネツィア日記』とも言える手紙を数多く送っている。

(ヴェネツィア発 1222日)

 愛しい人よ、すがすがしい朝です!

 3日前から、「お前が抱きしめ、お前が笑いかけた人」-−−また、「お前の胸の中で、お前をささげられ」といった箇所に取り組んでいる。長らく中断していたため、仕上げようにもうまく思い出せず、いらいらが嵩じ、もはや万事休す-−−と思ったその瞬間、妖精のコボルトが愛らしいミューズの姿でひょっこり顔を出し、難問はたちどころに氷解した。早速ピアノに向かい、まるで前から暗譜していた曲のように素早く書き写した。仔細を点検すれば『夢』*の名残が認められるが、あなたはきっと許してくれると思う。-−−愛しい人よ!-−−私を愛しても悔いるには及ばない!それは神々しいことなのだから!

『名作オペラブックス「トリスタンとイゾルデ」P.199(音楽之友社刊)より

 

 *『夢』とはマティルデが書いた詩につけた曲のことを指す。

マティルデ・ヴェーゼンドンク(1828-1902)
マティルデ・ヴェーゼンドンク(1828-1902)

 これらの手紙はさすがに直接送ることはせず、知人のエリーザベト・ヴァレ夫人を通して日記という形でマティルデに届けられたという。

 このようにヴェネツィア滞在時に発想されたのが、究極の愛のドラマである『トリスタンとイゾルデ』という説の根拠になっている。

 しかし、翌年の23日は、ウィーン警視総監ケンペンからの追放命令がヴェネツィア警察に伝えられ、一度はワーグナーには好意的だったヴェネツィア側によって撤回されたものの、その後オーストリア軍がイタリアに進駐するという情報を得て、ワーグナーはやむなく足掛け8ヶ月に及ぶヴェネツィア暮らしに別れを告げ、324日に退去している。

 

 

 ワーグナーが2度目にヴェネツィアを訪れたのは186111月の数日間だった。当時、ヴェネツィアに滞在中のヴェーゼンドンク夫妻に招かれたワーグナーは、ここでつつましく客人を接待するマティルデと夫妻の仲睦じい様子を見て、彼女との恋に終止符を打つ決心をしたという。夫妻が、わざわざこの地に彼を招いたのも、いわばこのスキャンダルに終止符を打たせる目的もあったのだろう。

 自伝『わが生涯』によると、ワーグナーはこのヴェネツィア訪問の際に、サンタ・マリア・グロリオーザ・ディ・フラーリ教会の祭壇を飾るティツィアーノの絵画『聖母被昇天』に深い感銘を受け、懸案であった『マイスタージンガー』を完成する決意をしたというが、ワーグナー自身による脚色の可能性もなくはない。

コージマ・ワーグナー(1837-1930)
コージマ・ワーグナー(1837-1930)

 この年は、長年のリソルジメントの成果として、イタリアにとっては念願だった「イタリア王国」は成立したものの、ヴェネツィアはまだオーストリア統治のままであった。

ヴェネツィアが、イタリアに組み込まれるのは、その5年後の1866年になってからである。普墺戦争でプロイセン側についたイタリアは、対オーストリアとの戦争には敗北するものの、結果としてプロイセンが勝利したために、戦勝国側のイタリア王国はヴェネツィアを含むヴェネトの領土を要求し、住民投票によって加盟が承認されて、晴れてイタリア王国に編入されたのである。

 1870年、かねてから不倫関係であったコージマとは、夫でもありワーグナーの愛弟子でもあったハンス・フォン・ビューローとの離婚が成立し、825日ルツェルンで晴れて正式に結婚した。すでに二人の間にはイゾルデとジークフリートという2児が授かっていた。

 

 さらに、その2年後には義父リストとの関係も修復され、宿願のバイロイト祝祭劇場の建設が決定するなど、このころは得意の絶頂の時期でもあった。

 

 次に彼がヴェネツィアを訪れたのは、2度目のヴェネツィア訪問から5年後の18769月で、約1ヶ月滞在した。この8月には、彼の畢生の念願だったバイロイト祝祭劇場で『ニーベルングの指環』4部作の初演を果たし、第1回バイロイト祝祭が開催されたあとの余裕の滞在であった。

さらに4年後の1880年、ワーグナー一家はほぼ1年をイタリア各地で過ごし、104日には、また馴染みのヴェネツィアへやってきた。彼にとっては第4回目のヴェネツィア来訪となる。イタリア歴訪の間に、彼は最後のヴェネツィア滞在でも共にするロシアの若い画家パウル・フォン・ジューコフスキーと出会う。同地に滞在していたアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズ(19431916)の紹介であった。

 いささか余談めくが、この時のほぼ1ヶ月にわたる滞在先は、ホテル・ダニエリからコンタリニーニ・デッレ・フィグーレ館へ移ったと記録されているが、当時は所有者の名からパラッツィオ・グィッチョーリと呼ばれていた。グィッチョーリといえば、あのバイロンの恋人だったテレーザ夫人の家柄である。もともとグイッチョーリ家は、ラヴェンナが地元の侯爵家であったので、バイロンが夫人を追ってラヴェンナに移ったのもこうした経緯があったからのようだ。しかも、この邸宅は、ワーグナーが滞在する7年前には、日本のイタリアでの最初の領事館が設けられたところでもあった。(ただし、この領事館は1年足らずで閉鎖されてしまった)

 

パラッツォ・ヴェンドラミン・カルレジ       
パラッツォ・ヴェンドラミン・カルレジ       

閑話休題。18824月には、ワーグナーにとって5回目になるヴェネツィアへの来訪を果たす。この時は半月ほどでバイロイトに帰った。バイロイト祝祭劇場での『パルジファル』上演の準備で忙しかったのだ。

そして上演も成功裡に終わり、916日から再び、この年2回目となる第6回目のヴェネツィアの訪問を果たした。この時にも、家族とともにジューコフスキーも伴ってきた。滞在したのは、優美なるルネサンス様式の形態を持つパラッツォ・ヴェンドラミン・カルレジ(現在は、市公認のカジノになっており、一部にワーグナー資料館が設けられている)である。

 

そして11月には義父であるリストが、ヴェネツィアのワーグナーのもとを訪れている。リストが夕暮れ時に運河沿いを歩いていると、その前をゆっくりとゴンドラの葬列が通り過ぎて行った。その印象を『哀しみのゴンドラ』(第1と第2がある)の曲想が浮かんだという。結果としては2ヶ月後に亡くなるワーグナーの死を予感したというが、これは後年の創作エピソードかもしれない。

ワーグナーとコージマ
ワーグナーとコージマ

 この年の1224日コージマの誕生日に、フェニーチェ劇場で彼の初期作品である「交響曲ハ長調」を彼自身が指揮した。演奏したのは、ベネデット・マルチェッロ音楽院の生徒たちだった。この時は義父リストも、若きエンゲルト・フンパーディングも同行した。13歳の息子ジークフリートが父の指揮を見たのも、これが最後となった。

 

この時、同行したリストにワーグナーは、こう囁いたという。「娘を愛していますか?なら、ピアノのところへ行って一曲聞かせなさい!」すぐにリストはそれに応じ、長時間演奏してみんなを喜ばせたとある(マレック「ワーグナーの妻コジマ」中公文庫)。コージマは日記に「楽しい夕べを過ごして子供達は大はしゃぎ、Rはご満悦」と記した。

 翌1883年、年が明けると長く滞在していたリストも去って、家族とジューコフスキーだけとなった。この時にすでにワーグナーの体調はかなり悪化していた。ジューコフスキーも、そんな彼から離れるわけにはいかなかったのだろう。2月になると、指揮者のヘルマン・レヴィがやってきて『パルジファル』上演について話しにきたが、12日に涙ながらに辞したという。すでに永遠の別れを察知したのかもしれない。

 

そして翌日の213日、午後2時ごろ、書斎にいたワーグナーの呼び鈴が激しく鳴った。慌てて女中とコージマが駆けつけると、ぐったりとしたワーグナーがいた。思わず腕に抱きかかえると、彼女が贈った懐中時計がポケットから床に落ちた。「わしの時計」と彼が呟いた。それが彼の発した最後の言葉だった。医者が駆けつけたが、介抱の間もなく午後330分ワーグナーは息を引き取った。それからコージマはまる25時間もの間遺体のそばを離れず、部屋から一歩も出なかった。

リスト・フィレンツ(1811−86)  
リスト・フィレンツ(1811−86)  

16日朝、大運河を黒い垂れ幕に覆われたゴンドラの一行が、サンタ・ルチア駅へと向かった。そこからほぼ24時間後に、やっとバイロイトに無言の帰宅となった。

ヴェネツィアも、巨匠の死を悼んだ。17日には音楽院は休講となり、サン・マルコ広場での楽団の演奏も中止になった。当地の新聞は「音楽会の地平線に没した星を我々は忘れないであろう」と記した。

 

その3年後の18861月、リストは再びヴェネツィアを訪れた。ワーグナーの思い出に浸ったのだろうか。彼もまた同年の7月、75歳の誕生祝典が行われたこの年、バイロイトで亡くなった。