6)バイロンとその時代

ジョージ・ゴードン・バイロン
ジョージ・ゴードン・バイロン

 共和国崩壊後のヴェネツィアを訪れた人物の中でも、大きな影響力を持ったのはイギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン (1788-1824)ではないだろうか。男爵でもあった彼は、新妻との破局、異母姉との近親相姦というなんともスキャンダラスな噂によって、イギリスの上流社会からは疎外されてしまった。そのために母国を離れざるを得なくなり、ついには1816年4月、長い流浪の旅に出る。28歳の時である。

 イギリスを出ると、ベルギー、ドイツ、スイスを経てイタリアに入り、11月にヴェネツィアに到着した。そして18196月にラヴェンナに向かうまでの2年7ヶ月をこの地で過ごすことになる。そして、この詩人のもっとも充実した時期が、このヴェネツィア滞在の2年半であった。ここで彼は共和国崩壊後の頽廃したヴェネツィアの香りを「滅びの美」として賛美し、哀惜したのであった。

 彼がヴェネツィアに滞在した前後の創作活動は、ほぼ彼の代表作を網羅しているほど充実したものだった。『コリントの包囲』(1816)、『シヨンの囚人』(1816)、『マンフレッド』(1817)、『ベッポ』(1818)、そして『チャイルド・ハロルドの巡礼第四歌』(1818)などである。また『ドン・ジュアン』(1819〜)もこの時期から書き始めている。

 またヴェネツィアを離れた後も、同地を題材とした『マリーノ・ファリエーロ』(1821)、『二人のフォスカリ』(1821)の2本の戯曲を発表している。前者はドニゼッティ、後者はヴェルディによっていずれもオペラ化された。

 また、バイロンを一躍有名にした長編詩が『チャイルド・ハロルドの巡礼』の第一歌と第二歌であったが、中でもイタリアを歌い上げた「第四歌」は、ヴェネツィアも含めて、後の芸術家たちに圧巻の影響をもたらした。美術においては、イギリスの画家J.M.W.ターナー(1775-1851)が、1819年にヴェネツィアを訪れて描いた『チャイルド・ハロルドの巡礼—イタリア』(1832)があり、また音楽ではベルリオーズの管弦楽曲『イタリアのハロルド』(1834)が、何よりそれを物語っている。

 この他にも彼の作品に触発されて、シューマンが劇音楽『マンフレッド』(18489)を、同じくチャイコフスキーも交響曲『マンフレッド』(1855)を作曲している。ドニゼッティが歌劇『パリジーナ』、ヴェルディも歌劇『海賊』を作曲、アダンはバレエ曲『海賊』を作曲するなど、バイロンの作品をオペラや楽曲にした例は枚挙にいとまがない。

 

 先にバイロンがヴェネツィアからラヴェンナに向かったと記したが、その経緯もいかにも恋多き彼らしいので紹介しておこう。

バイロンの愛人であったテレーザ・グィッチョーリ伯爵夫人
バイロンの愛人であったテレーザ・グィッチョーリ伯爵夫人

 1819年、彼はある文芸サロンにおいて、19歳という若い伯爵夫人テレーザ・グィッチョーリに出会う。そしてたちまち恋におち、二人はしばしばフェニーチェ劇場で落ち合って密会した。ところが、彼女の夫グィッチョーリ伯爵がこの街を去ることになり、それを聞いた伯爵夫人テレーザは、慌ててフェニーチェ劇場にいると思われたバイロンのもとに駆けつける。その桟敷は通常男性だけに利用されている席で、そこに若い人妻が駆け込んできたのだから好奇の目が注がれたことは想像に難くない。

 結局、夫人はヴェネツィアを去り、バイロンもまた彼女を追ってラヴェンナへと旅立ったのである。

 

彼がヴェネツィアにいた時には、アヴァンチュールの相手として商人の妻マリアンナ・セガーティと22歳のマルガリータ・コーニとの関係が知られているが、若い人妻だったテレーザと会ってからは、彼女一筋だったようである。

 パーシー・ビッシュ・シェリー
 パーシー・ビッシュ・シェリー

 またバイロンを慕って、1818年にイギリスのロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(17921822)が妻メアリー(1797-1851)とともにヴェネツィアを訪れている。そこでシェリーが書いた『ジュリアンとマッダロ』(1818)、『エウサネイ山中で書いた詩行』(1818)などは、バイロンの影響を色濃く残している。

 

蛇足だが、妻のメアリー・シェリーもまたゴシック小説『フランケンシュタイン』で知られる女流作家である。この小説のきっかけを作ったのは、18165月にバイロンの誘いによってレマン湖のディオダディ荘で集まった4人が、それぞれ怪奇的なストーリーを競作したことから始まった。

ウィリアム・ワーズワース   
ウィリアム・ワーズワース   

 この崩壊したヴェネツィアをイギリスの田園詩人ウイリアム・ワーズワース(17701850)は、14年の歳月をかけて書き上げた長編詩『国家の独立と自由に捧げる詩』(180216)の中の第1部第6節『ヴェニス共和国の消滅について』で描いている。ただし、ワーズワースは、イタリアには旅行しているが、ヴェネツィアには足を踏み入れていない。

 

かつて彼女は豪華な東洋を領有し、西洋の護衛者であった。

ヴェニスの価値は自由の最初の子ヴェニスとして

彼女が生まれたときより下がりはしなかった。

彼女は輝かしく自由な乙女の都市であった。

どんな策略にも迷わされず、どんな暴力も汚し得なかった。

そして、彼女が自分に配偶者を得たとき、

彼女は永久なる海と結婚せねばならなかった。

そしてその栄光が色あせ、その称号が消え失せ、

その威力が衰えるのを、彼女が見たとしたらどうだろう。

しかし、彼女の長い生涯が最後の日を迎えたとき、

なんらかの遺憾の意が表されるべきであろう。

われわれが人間である以上、かつて偉大であったものの

影でさえ消え去ったときには悲しむべきであろう。

(山川鴻三『ヴェニスと英米文学』南雲堂)