11)シャネルとミシアそしてディアギレフ

  “ココ”ことガブリエル・シャネル(1883-1971)が初めてヴェネツィアを訪れたのは、1920年、最愛の恋人であったアーサー・エドワード・“ボーイ”・カペルを失い、悲嘆で打ち拉がれていた時期であった。カペルは、イギリスの富裕な家庭で育った陸軍大尉で、ポロ選手としても有名だった。単に恋人というだけでなく、無名だった彼女に資金援助してシャネル第1号店を持たせ、かつ彼女に教養を身につけさせるために自ら詩や哲学などを記したノートを贈るなどして、彼女を物心両面で支えた存在であった。しかも、彼の死はシャネルとの密会に向かう途中の自動車事故であったことも、彼女の嘆きを一層深いものにした。時に19191221日、クリスマスを直前にした事故死であった。

 そんな傷心の彼女をヴェネツィアに誘ったのは、当時パリのサロンの名花と謳われたミシア・セール(1872-1950)であった。もともとポーランドのピアニストであったミシア・ゴデブスカは、リスト、グリーグ、ドビュッシー、ラヴェルといった名だたる作曲家と共演したこともあり、最初の夫は従兄で新聞界の大立て者だったタデ・ナタンソンであった。彼が発刊した『白色評論(ルヴュ・ブランシュ)』は、当時の知識人たちの主要な論談の発表の場でもあった。「ミシアは彼のおかげで、パリに住むすべての大画家や大作家と、たがいに「あんた」「きみ」と呼び合う間柄になれた。」(クロード・クレ『ココ・シャネル』上田美樹訳98p

 

ルノアールが描いたミシア      
ルノアールが描いたミシア      

 こうした富と人脈によって、彼女は演奏者としてのピアニストから芸術のパトロネージュを担う人へと転身させた。美貌の彼女をモデルにして描いた画家は、ルノアール、ロートレック、ボナール、ヴュイヤールと枚挙にいとまがない。(ヴュイヤールは、ナタンソン夫妻としても描いている)

 そのナタンソンから奪うようなかたちで結婚を迫り、2度目の夫となった『ル・マタン』紙の支配人アルフレッド・エドヴァール(エドワーズ)もまた大富豪であり、「嵐のような結婚によって、ミシアはパリの女王になった」(前掲書)という。この頃、庇護者であったラヴェルから『ラ・ヴァルス』を献呈されている。夫を替えるたびに、さらに人脈を広げた女性であった。

 シャネルがミシアと知りあったのは1917年5月、女優のセシル・ソレルの主催するディナーだった。この頃ミシアは、後に3番目の夫となる「カタロニア出身の激情的な画家ホセ・マリア・セールとの恋愛が絶頂に達し、結婚は時間の問題」(前掲書)という時だった。セールとはすでに数年間同棲生活を送っており、1920年には正式に結婚することになる。

 ミシアは、当時気鋭のデザイナーとして売り出していたシャネルの持つ才能をいち早く認めた。以来、ミシアはシャネルにさまざまな芸術家たちを惜しみなく紹介した。作曲家のストラヴィンスキー(シャネルは、彼を2年間も家族ともども自邸に住まわせ作曲に専念させている。ストラヴィンスキーは、彼女に思いを寄せたが彼女は微妙な距離感を保った)、ラヴェル、サティ、ミヨー、プーランク、コクトー、ピカソ、ダリ、ジャコブ、ルヴェルディ(作家で、後にシャネルの愛人となる)など、音楽家、画家、作家と、その人脈を糧にシャネルはアーティストとして飛躍的に成長していったのである。シャネルもまたミシアを姉のように慕い、生涯を通じて愛憎入り交じった関係が続いた。戦後の1950年ミシアが亡くなった時に、彼女に死化粧を施したのもシャネルであった。

 

 二人の出会いの時に戻そう。その当時のミシアは「パリのサロンの女王」であり、シャネルは売り出し中の若い一介のデザイナーに過ぎなかった。ミシアが、カペルを喪い傷心のシャネルをヴェネツィアに誘ったのは、ミシアの第3の夫となった画家ホセ・マリア・セールとの新婚旅行の時である。ミシアは、シャネルにこの街が持つ底知れぬ美への感性を感じ取ってもらいたかったに違いない。新婚旅行とは言え、すでに十年以上も同棲している二人にとっては、シャネルを同行させることに何の問題もなかった。それよりも、並外れた情熱家であるセールは、芸術に造詣深く該博な知識を駆使して、彼女を美術館から美術館へと連れ回し、教科書的ではない雄弁な解説をシャネルに吹き込んだ。と、多くのシャネルの伝記にはそう記されている。ただし、エドモンド・シャルル=ルーの『ココ・アヴァン・シャネル(下)』(加藤かおり・山田美明訳・ハヤカワ文庫21p)では、「セールによれば、宮殿や教会や公共建築物、そうした建物の中に光り輝く彫像や神々しい天井画ばかりに、この街の本当の姿を求めてはいけないのだという。ガブリエルはその教えにしたがった。美術館を楽しむか、日常生活を楽しむか、どちらを選ぶ?彼女の決断は早かった。ガブリエルは日常生活を楽しむことにした」とある。そこでミシア夫妻は、シャネルをヴェネツィアの一流レストランに連れ回し、芸術だけでなく品位のあるライフスタイルについて教育し続けた。まさにミシア夫妻は、彼女に取っての人生の「水先案内人」であり最良の「家庭教師」であったのである。彼女は、「イタリアは好きになれなかったが、ヴェネツィアだけは別格だった」(前掲書22p)と述べている。

 シャネルもまた、「家庭教師」のセール夫妻の期待にみごとに応えた。ヴェネツィアのほとんど時代が止まったような華麗な色彩を見た時、彼女の心の中にふたたびクリエーションに挑戦する焰が点されたのであった。バロック様式のアラベスクからシンプルな造形美、中世から受け継がれてきた色彩感覚・・・それらすべてがシャネルを魅了した。このヴェネツィアの旅から、ふたたびシャネルは美を感じる心と同時に、悲嘆からたくましく生き抜く精神を学び取ったのである。

 

ディアギレフの出会いと死

 そこでたまたま出会ったのは、当時バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を率いていたロシアの興行師のセルゲイ・ディアギレフ(18721920)である。当時、彼はストラヴィンスキーの『春の祭典』の上演に熱意を燃やしていたが、つねに資金不足で悩んでいた。すでにパリの社交界でミシアから紹介されていたディギレフであったが、パリにいた時とは違った悩める興行師の姿を見たのである。

 

 ディアギレフは、ロシアの下級貴族の家に生まれ、当初は美術雑誌や絵画展を開いていた。その後1908年にパリでムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』をシャリアピン主演で上演し、大成功を収めた。その翌年、パリのシャトレ座で初めて・ロシア・バレエの大規模な公演を行った。ここで初めて西欧の人たちはロシアのバレエを目の当たりにして、その踊り手たちの高い技術的水準に驚愕し、改めてバレエ芸術を見直したのである。これ以後、ロシア・バレエは西欧に一大センセーションを巻き起こすことになる。1911年には、ディアギレフはマリインスキー・バレエ団からダンサーを引き抜いて独立したバレエ団を結成した。これがバレエ・リュスで、パヴァロヴァ、ニジンスキー、カルサヴィナ、マシーン、リファール、バランシンなどの名手たちが、ここからヨーロッパ・デビューを果たした。

 ディアギレフはたぐいまれな企画力で、音楽も美術も一流のアーティストをそろえた。

 彼に協力した芸術家は、ピカソ、ブラック、ルオー、ローランサン、シャネル、ドビュッシー、ラヴェル、サティ、ファリャ、R.シュトラウス、ホフマンスタールそしてこのバレエ団によって世界的な名声を確立したストラヴィンスキーと、まさに20世紀を代表する芸術家たちがディアギレフのもとに結集したのである。

 しかし、この歴史的な芸術活動も興行的にはほとんどつねに赤字であり、彼はつねに資金援助をしてくれる資産家と密接なつながりを求めていた。ミシアもまたすでにバレエ・リュスの美術を担当していたセールからディギレフを紹介され、彼の後援者の一人となっていた。

 このヴェネツィアでの出会いも、彼が後援者の一人であるロシアのマリア・パヴロヴィナ大公夫人と昼食をとっていた時に立ち寄ったのだった。

 その後、パリで彼に再会した時に、シャネルは30万フランの小切手を手渡す。条件は匿名であること。ただし、その約束はディアギレフの死後、彼の秘書だったボリス・コフノの著作によってこの事実が明かされたが、それがなければ永遠にこの事実が知られることはなかったかもしれない。これ以後、シャネルとディアギレフとは彼がヴェネツァアで亡くなるまで、変わらぬ友情に支えられていた。

 このヴェネツィアをはじめとしたイタリア旅行では、シャネルは若き日のルキーノ・ヴィスコンティにも出会い、その後彼へも物心両面での援助を惜しまなかった。

 

 1929年の夏、思わぬ電報でシャネルは再びヴェネツィアを訪れることになった。当時、シャネルは、彼女の何番目かの愛人であるウエストミンスター公爵の大型ヨット「フライング・クラウド号」に乗っていた。すでに破局寸前になっていた二人の仲ではあったが、親友のミシアと一緒に最後のクルージングに出たのであった。その船上に無線で電報がもたらされた。

 「病人を見守ってください。早く来てください」ディアギレフからだった。彼は、リド島のホテル・デ・バンの一室で持病の糖尿病が悪化し、すでに瀕死の状態であった。公爵はヨットを直ちにヴェネツィアに向かわせた。

<ミシアは、彼がリド島にオテル・デ・バンの一室で、その二人のお付き、リファールとコフノにはさまれて、そのむしむしするような暑さにもかかわらず、がたがた震えているのを見出した。かれは険しい顔をし、汗だくだった。(中略)「ああ、なんてうれしいことだ」と彼はささやく。「白はとても君に似合うね、ミシア。いつも白を着なさいよ」部屋に入ったときココはすぐに理解した。>(前掲書180p

 二人のお付きとは、バレエ・リュスの主要ダンサーであるセルジュ・リファールと、永年バレエ・リュスの文芸部門を担い、ディアギレフの秘書役を務めてきたボリス・コフノ(コクノ、コシュフとも)である。二人とも、同性愛者であったディアギレフのパートナーであり、いつも諍いを起こしていた二人だった。

 重病のディアギレフではあったが、小康に戻ったので、シャネルはいったんヨットに戻り、ミシアは衝撃を受けてダニエリにとどまった。しかし、帰った二人のもとに、深夜になってコフノからふたたび連絡があった。ディアギレフが昏睡状態になったというのだ。二人は再度、ディアギレフにもとに駆けつける。ディアギレフは、最後にふたたび目を開けると「彼女らはとても若かったんだよ、真っ白の服を着てね!彼女らは純白だったんだよ!」(前掲書182p)といって、ふたたび目を閉じた。

 彼が亡くなったのは、夜明け前だった。彼の死は、二人の若者の感情を爆発させた。コフノがベッド脇に跪いていたリファールに飛びかかり、取っ組み合いの乱闘を始めた。女性たちは、それを一喝して二人を引き離し、シャネルはディアギレフの死化粧をはじめたのである。

 ミシアは、もうディアギレフの金庫には一文も残っていないことを知っていた。彼女は、ヴェネツィアの宝石商から買い求めたダイヤの付いた3連のプラチナのみごとな鎖を担保に、同じ宝石商から借金をして、希代の大興行師ディアギレフにふさわしい葬式を出すように指示したのである。シャルル=ルーによれば、ミシアが宝石商に行く前に、シャネルと出会い彼女がその金を用立てたとしている。

 翌日の早朝、ヴェネツィアの墓地であるサン・ミケーレ島へ向けて出発するゴンドラは3艘。先頭のすべて黒におおわれたゴンドラにはディアギレフの棺が。2艘目は、白をまとったシャネルとミシア、そして諍いの耐えないリファールとコフノの2人。そして3艘目に、葬儀を執り行うロシア正教の聖職者5人が乗った。

 こうして狂乱の時代とも、またベル・エポックの時代とも呼ばれた時代にパリを魅了し続けたセルゲイ・ディアギレフと、ガブリエル・シャネル、ミシア・セールの3人が「出演」したヴェネツィアでの華麗な幕がおろされた。

 ちなみに、現在もサン・ミケーレ島のロシア人墓地にディアギレフが眠っており、その隣には盟友だったストラヴィンスキーの墓もある。ストラヴィンスキー自身は、ニューヨークで没したが、遺言によりこのサン・ミケーレ島に葬られたのである。

ちなみに、葬儀の時も諍いを続けていたというディアギレフの側近について触れておこう。

 セルジュ・リファールは、もともとウクライナ出身のバレエダンサーで、ニジンスキーの妹ニジンスカに師事していた関係で、1923年にバレエ・リュスに入団。めきめき頭角を表し、末期のバレエ団を支えた。後にウクライナの切手の顔にもなっている有名人だ。ディアギレフ没後は、パリ・オペラ座バレエ団のプリンシパル、振付師として活躍。1953年には来日も果たしている。

 一方のボリス・コフノもまたウクライナ出身で、ディアギレフの信頼を得て秘書や台本作家として活躍。後にジョージ・バランシン、ローラン・プティなどの盟友とともにモンテカルロ・バレエ団、シャンゼリゼ・バレエ団などを結成。ストラヴィンスキーのバレエ曲『カルタ遊び』の舞台演出も手掛けている。

 

 ディアギレフの死に際には諍いを起こした二人だったが、ともにディアギレフの残した芸術的遺産をみごとに継承して、ヨーロッパとアメリカでのバレエ発展に寄与したのである。

ヴェネツィアの墓地の島、サン・ミケーレ島にあるディアギレフの墓(側にはストラヴィンスキーの墓もある)
ヴェネツィアの墓地の島、サン・ミケーレ島にあるディアギレフの墓(側にはストラヴィンスキーの墓もある)