10)ブラームスとヴェネツィア

 ブラームスが初めてイタリアを訪れたのは1878年、45歳の時だった。この時、初めてヴェネツィアにも訪れている。すっかり明るい陽光に魅せられた彼は、以来60歳となる1893年まで、生涯で9回もイタリアを訪れている。当初は、ウィーン大学教授で著名な外科医でもあった親友のテオドール・ビルロート(1829-94)と一緒であった。

 そんなイタリアの旅の魅力を、恩師シューマンの妻で生涯にわたり敬愛していたクララにも伝えている。「ヴェネツィアで数日過ごすのは、旅の出だしとしては最高ですし、貴女にとっても快適で魅力ある楽しみになるでしょう。貴女はただサン・マルコ広場をぶらぶら歩いたり、そこに腰かけたり、またゴンドラでひと巡りしたりすればよいのです。ここでも他の町でも、たとえ美術館や教会を犠牲にしても、貴女は果物、野菜、魚市場をも逃してはなりません(三宅幸夫『ブラームス』新潮文庫)」と書いて、ヴェネツィアを訪れたら市場を見るようにとすすめている。彼にとっては北国ドイツにはない、南国の野菜や果物、地中海の魚介類などがきっと珍しかったに違いない。

 1882年の夏、ブラームスはいつものように避暑地バート・イシュルに滞在した後、98日にはビルロートとともに3回目のイタリア旅行に赴いた。913日は、敬愛するクララの63回目の誕生日でもあったので、彼女や娘たちが滞在していたコモ湖畔のベラッジオを訪れた。

 クララはブラームスのすすめに従って、そこから一緒にヴェネツィアへ行くはずだった。クララの娘オイゲーニエの回想によれば、出発の前日、大雨が降り大荒れの天候だったため、ブラームスとビルロートは出発に二の足を踏み、クララ一行のみ荒天の中をミラノ経由でヴェネツィアに出発したという。「艱難辛苦の末にコモ湖を渡り、さらに大変な思いをして汽車に乗り換える。いつもは臆病な母が、こんな時には逞しく、尊敬しきりであった。(『ブラームス回想録集第3巻「ブラースムと私」』より)」と述懐している。さらに一行が乗った汽車が通り過ぎたあとに橋が崩れ落ちたというニュースをヴェネツィアで聞き、恐怖に青ざめた。

 次の日になっても、ブラームスたちは来なかった。「残念な気持ちと、雨を怖がる臆病者を情けないと思う気持ちが一緒になった」と辛辣に評している。

 ところが、その4日後、サン・マルコ広場でコーヒーを飲んでいると、二人が突然現れたのである。「道は寸断されていたはずなのに、どうしてヴェネツィアに到着できたのか未だに謎であった。」とオイゲーニエは述懐する。ちなみにクララ一行が宿泊したホテルは「イギリス女王館」であった。

 その後、クララ一家とブラームスがウィーンに戻ったのは、101日であった。

 この年は、ピアノ三重奏曲第2番や「運命の女神の歌」などを作曲しているが、前年にはピアノ協奏曲第2番を作曲し、翌年には交響曲第3番を完成させた時期でもあった。時に、ブラームスは円熟の49歳。

 ちなみに同行した医師のビルロートは、初めて胃癌の切除手術を施した外科医として知られ、現在でも彼の手法はビルロート法として用いられている。また日本とのかかわりでは、順天堂の3代目で後に軍医総監となる佐藤進(アジア人で初めてドイツの医学博士号を取得)が、ベルリン大学で師事したのが、このビルロートであった。

 当時ブラームスの音楽上の対立相手といわれていたワーグナーもまた、たびたびヴェネツィアを訪れているが、彼にとっては最後のヴェネツィア訪問となったのが、この年の9月16日であった。当時ヨーロッパでは長雨が続き、ワーグナー一家が到着した日も激しい雨に見舞われた。ということは、ブラームスとワーグナーはまったく同時期にヴェネツィアに滞在していたことになる。果たして2人の巨匠は、どこかで出会ったのだろうか。ブラームスが滞在していた場所は不明だが、ワーグナー一家は、画家ジュコフスキーと一緒にホテル・エウローパに宿をとった。その後、結果的には終焉の場となったヴェンドラミン・カレルジ宮に移った。ワーグナーは、ここに長期滞在し、翌年の2月13日に亡くなっている。

 

 訃報が伝えられたとき、折しも合唱の練習中だったブラームスは、「巨匠が死んだ。今日はもう何も歌うものはない」といって練習を取りやめたという。