12)プルーストのヴェネツィア

 

 マルセル・プルースト(18711922)がヴェネツィアに限りないオマージュを捧げたのは、明らかにジョン・ラスキン(1819-1900)の影響である。

 彼がヴェネツィアを訪れる前年から、ジョン・ラスキンに傾倒し、彼の書いた『ヴェネツィアの石』(185153)をはじめとする中世建築と、共和国崩壊後とはいえ、まだ残るそれらの建物に触れるために、19世紀最後の年である1900年(この年の1月に81歳でラスキンが亡くなっていることもあって)の5月に、初めて念願のヴェネツィアに母と一緒に1ヶ月ほど訪れた。さらに同じ年の10月、今度は一人で10日ほど滞在した。そこでのヴェネツィア体験をもとに、彼の畢生の大河小説『失われた時を求めて』が、1909年頃から書き始められ、亡くなる1922年まで書き続けられたのである。この小説の舞台としてパリやデルフト、トレドなどの実在のまちに加えて、架空のまちバルベック(ノルマンディ地方の避暑地カブールがモデル)などいくつかの都市を登場させているが、全編にわたって、ある時は通奏低音のように、ある時は主題のように奏でられるのがヴェネツィアへの憧憬である。

 しかし、かくまでヴェネツィアにオマージュを送り続けたプルースト自身は、なぜか1900年以降まったく足を踏み入れていないのである。

 最初の母と一緒にヴェネツィアを訪れた時の泊まったホテルがどこであるかということが、プルースト研究者の間で論争になったことがあった。当時も今も最高級ホテルのひとつであるダニエリ説(プルーストは、常に自分が宿泊するホテルは、現地での最高級ホテルしか泊まらなかったという説が根拠になっている)と、「私」がゴンドラに乗って大運河を渡っているのを見て、母が手を振ったという文章の中で考えると、スキアヴォーニ河岸にあるダニエリであれば、それは不可能であるということから、現在はビエンナーレ事務局になっているジュスティニアン館ではないかという説が浮かんでくる。これも当時は、高級ホテルであったホテル・エウローパであった。(因みに、ここのホテルにはヴェルディやゴーチェなども滞在している)確かに、現在でもこの建物の運河沿いにはテラスがあり(ここのカフェは、この付近では格安の休憩場所である)、このテラスから、もし母がここから手を振ったと考えれば、実に自然な情景のようにも思えるのだ。

 

 彼自身がヴェネツィアで撮られた写真では、明らかに大運河沿いであり、実際にホテル・エウローパかどうかは定かでないが、少なくともこの写真を撮られた場所がダニエリではないことは確かなようである。ただし、2回のヴェネツィア訪問のどちらか(多分2回目の一人で滞在した時)で、ダニエリに泊まった可能性も捨てきれない。また、小説の中で、それらしい描写もあることも事実である。

ジュスティニアン館(ホテル・エウローパ)
ジュスティニアン館(ホテル・エウローパ)
ホテルのベランダでくつろぐプルースト(これがホテル・エウローパではないかと想像される)
ホテルのベランダでくつろぐプルースト(これがホテル・エウローパではないかと想像される)

プルーストの中のフォルチュニー

 かつて谷崎潤一郎や舟橋聖一などの小説家は、登場人物の衣装や持ち物などを表現することによって、その当時の風俗描写だけでなく、人物のひととなりや職業などを巧みに描き分けた。その伝でいけば、『失われた時を求めて』におけるマルセル・プルーストなども、19世紀後半から20世紀初頭、すなわち世紀末の風俗やファッションを巧みに描き分けた作家といえよう。なかでも、ヴェネツィアに関連したものとすれば、フォルチュニーの衣装に触れた部分が興味深い。

 スペイン出身の画家であり、装飾家でもあったマリアノ・フォルチュニー(18611949)は、ペーザロ・デッリ・オルフェイ館(現フォルチュニー館)を購入して、自らの衣装などを展示するフォルチュニー美術館とした。彼は舞台衣装を手がけたことから服飾に興味を持ち、とくにヴェネツィアのシルクやヴェルベットに魅せられ、1907年、自ら織物工場を設立してその再現と研究に努めた。さらに再現だけでなく、独自の意匠を凝らして独特のファッション・スタイルを確立した。とくに絹の独特のプリーツを施した「デルフォス」は、古代ギリシャ彫刻に想を求めたもので、身体を自然のままに包み込むファッションは革新的であった。現代の三宅一生のヒット商品「プリーツ・プリーツ」も、まさにここから発展したものである。

 プルーストは、このフォルチュニーのファッションに強い関心を示し、『失われた時を求めて』の中で、繰り返し登場させている。

 とくに第5部の『囚われの女』では、パリにおいて主人公(私=語り手)がアルベルチーヌを喜ばせるために、このフォルチュニーの服を着せてやるくだりがある。彼女が初めて着るフォルチュニーの部屋着は、アラビア風のデザインが施された紺と金の生地で、それが語り手の目を通して「その青は私が視線を近づけるにつれて、柔らかく伸びる金に変わり、その変質していく様は、進んでいくゴンドラの前方で大運河の紺青が炎と燃える金属に変質していくのと同じだった」と描写している。この時の「私」が、アルベルチーヌに着せた部屋着のメタファーは、「きらめく大運河とサン・マルコ大寺院に描かれた水を飲む鳥」というヴェネツィアを表した2つのキーワードを表現したイメージでしかない。いうまでもなく、水を飲む鳥は、サン・マルコ大寺院の内部に描かれた図で、ラスキンが『ヴェネツィアの石』の中で強調している6つの代表的な図案の一つである。

 

 プルーストはフォルチュニーの衣装を通して、パリにいながら限りないヴェネツィアへのオマージュを捧げているといってもよい。同時に、それはプルーストが『失われた時を求めて』を執筆していた長い時間の中で、19世紀末から20世紀初頭へと移り変わる「時」の変化として、このフォルチュニーに限らず、スワン夫人やゲルマント公爵夫人の着る衣装やファッション・センスを描写し、それによって人物像や性格はもちろん、当時の世相までも浮かび上がらせているように思える。