9)ヴェネツィアのリルケ

 当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国内でのボヘミアのプラハで生まれた詩人ライナー・マリア・リルケ(1875—1926)にとっても、ヴェネツィアは思い入れの深いまちであった。年表を追っただけでも、彼は生涯に9度ほどヴェネツィアを訪問・滞在している。

 最初のヴェネツィア訪問は、1897年3月に母のゾフィーが当時滞在していたアルコ(北イタリアのガルダ湖近くのトレント県のまち)に寄った帰りに、ヴェネツィアまで足を伸ばした。彼にとって初めて見たヴェネツィアのまちの印象はかなり強かったのであろう。すぐにこの時の印象を、連詩『ヴェネツィア』として成立させている。

 この年、生涯にわたって親交を結び、彼にとってもっとも影響力のあった女性ルー・アンドレアス・ザロメ(18611937)と初めて手紙を交わした。そしてこの年の末には、さっそくルーの助言により、本名のルネをライナーに改名している。

 ルー・ザロメといえば、かつてニーチェもまたこの女性を愛したが、親友だったレーとの三角関係にまで発展し、結局は失恋している。「ファム・ファタール(運命の女)」として、彼女は他にもフロイトなど数多くの男性たちと浮き名を流していたが、一方で文筆家としても勇名を馳せていた女性である。当時彼は21歳。リルケとの年の差は15歳も離れており、恋人関係というよりは姉のように、あるいは人生の導き手として敬慕していたと想像していたが、実際はルーがまさに恋人として、リルケを惹きつけたようである。

 白井健三郎著『ルー・ザロメ』によると、出会いは18975月で、ルーに惹かれたリルケは、毎日彼女と会い、その日のうちに手紙を書いたと言う。その攻撃的ともいえる情熱にルーもまた抵抗することができなかったとしている。その後、友人とともにミュンヘン郊外の農家で過ごすなど、親密さを増し、1900年には二人だけで足掛け4ヶ月もかけてロシア旅行に出かけている。しかし、ここではルーとの関係について深くかかわることはできない。19045月には、ルーは若い医師のピネレース(通称ゼメク)とともにヴェネツィアを滞在していた時に、リルケはローマにいて再会を希望したが、ルーからは1枚のはがきだけだったという。しかし、別れてからも「人生での危機におそわれると、リルケは常にルーに慰めと助力を求め、ルーは優しくしかも冷静にそれに応えた。二人の間は30年にわたる揺るぎない愛情によって培われてゆくのである」と白井健三郎は述べている。

 ちなみに、ヴェネツィア出身の指揮者で作曲家でもあったジュゼッペ・シノーポリが、『ルー・ザロメ』(1981年、バイエルン国立歌劇場で初演)というオペラを残しているが、ヴェネツィアに深く関わったニーチェ、フロイト、リルケの3人の思いと無関係ではないだろう。

 

 リルケが、2度目にヴェネツィアを訪れたのは、1903年、2年前に結婚した女性彫刻家でもあったクララを伴っての旅で、8月末から9月9日までヴェネツィアとフィレンツェを訪れている。

 1907年、すでにウィーンでは詩人として高い評価を受けていた31歳のリルケだったが、3度目のヴェネツィア訪問はほろ苦いものだった。彼がサロン・ドートンヌで親しくなった美術商のピエロ・ロマネリの招待で彼の館に滞在した時である。ピエロには二人の姉妹がおり、姉はアンナ、妹はアデルミーナといった。1119日から30日までとわずか10日間逗留していたにもかかわらず、彼は通称ミミと呼ばれた妹のアデルミーナにすっかり恋してしまったのである。彼女とはこの時から数年にわたってフランス語で文通を行なうようになった。

 「リルケ全集」の伝記を書いたW・レップマンは、別れをこう記している。

今度のヴェネチア旅行でとりわけ彼の心に深く残ったのは、駅へ帰るときに通った運河の光景であった。すなわち、冬の早朝、一つの水路のなかへ船頭がゴンドラの向きを変えようとして、それを知らせるために出した声が、「まるで死の世界に向い合っているかのように、答えられることもなく、次第に弱まって消えていった」という光景である。

 この翌年、『ヴェネツィアの朝』を成立させている。

 実際ミミは、単なる詩人の夢想だけではなく、残されている写真や、かのダンヌンツィオも彼女を口説いたという事実からしても、美しく聡明な女性であったようだ。奇妙なことに、リルケはそんな恋する女性に対しても、なぜか自分の妻クララのことを彼女にたびたび語ってきかせたという。それゆえ、ミミは「彼が、私に夢中になっているといいながら、同時に私に向かって、奥さんや娘さんへの愛情のことを述べていたのは、私にはいつも不思議でした」と言わせしめるのであった。彼は、ルネッサンス時代の女流詩人ガスパラ・スタンパや、『ポルトガル文』を書いた修道女マリアンナ・アルコフォラド(リルケがドイツ語訳している)のような、能動的な女性が理想の女性像であったようだ。(この二人の名は、『マルテの手記』や『ドゥイノの悲歌』でも、ほぼ同じ文脈で並列して登場させている)こうしたリルケにとっての理想の女性像は、後に親しくなる女優のエレオノーラ・ドゥーゼに惹かれていったことなどにもつながるのである。

 ガスパラ・スタンパ(15231554)は、同じく16世紀に活躍したヴィットーリア・コロンナ(14921547)とともに、ヴェネツィアで活躍した評価の高い女流詩人である。死後に出版された『詩集』は、当時の女性の知的水準を示すものだが、20世紀初頭になってコルティジャーナ(高級娼婦)のレッテルを貼られたが、恋文によって奔放な自己主張を行なった修道女マリアンナ・アルコフォラドとともに自らを主張する女性像がリルケの琴線に触れたのであろうか。

 翌190912月には、『マルテの手記』の中の、ヴェネツィアのサロンでの「愛の歌」が成立する。

「そんな人々の中に僕は立ち交っていたのだ。僕は旅行者でないことをうれしく感じた。もうすぐ寒くなるだろう。彼らの空想の贅沢な偏見でゆがめられた「軟弱な、阿片のヴェネチア」はくたびれた眠そうな外国の旅行者といっしょに消えてしまうのだ。

 

そしてある朝、全く別な、現実の、いきいきした、今にもはじけそうな、元気のよい、夢からさめたヴェネチアが、姿を見せるに違いない。

 

海底に沈んだ森の上に建設したという、「無」から生まれたヴェネチア。意志によって建てられ、強制によって築かれたヴェネチア。あくまで実在に堅く縛りつけられたヴェネチア。

 

きびしく鍛えられ、不要なものいっさいを切り捨てたヴェネチアの肉体には、夜ふけの眠らぬ兵器廠が溌剌と血液を通わせるのだ。そのような肉体が持つ、精悍な、突進しか知らぬ精神には、地中海沿岸の馥郁たる空気の匂いなどから空想されるものとはおよそ比較を絶した凜冽さがあった。

 

資源の貧しさにもかかわらず、塩やガラスとの交易で、あらゆる国の財宝をかき寄せた不逞な都市ヴェネチアだ。ただ表面の美しい装飾としか見えぬものの中にさえ、それがかぼそく美しくあればあるほど強いかくされた力を忍ばせているヴェネチア。

 

ヴェネチアは全世界の重石(おもし)、しかも堅固な美しい重石だった。」

     (『マルテの手記』新潮世界文学32巻『リルケ』(大山定一訳)より)

 

 まさに、ヴェネツィア賛美の羅列ではないか。

 また、この年の12月には、彼の後半生の中で重要な意味を持つマリー・フォン・トゥルン・ウント・タクシス・ホーエンローエ侯爵夫人から最初の手紙を受けとる。以後、リルケと同夫人の間には460通もの往復書簡が残されることになる。翌年の4月、タクシス侯爵夫人に招かれトリエステ近郊ドゥイノの城に初めて滞在する。ここから彼の畢生の名作『ドゥイノの悲歌』が生み出されたのは周知のことである。

 このドゥイノの城滞在のあとの4月28日から511日まで、ヴェネツィアに滞在して、14世紀の海軍提督でキオッジャの戦いで活躍したカルロ・ゼン(1333-1418)について研究をしている。余談ながら、ゼンについては塩野七生が『海の都の物語』や『サイレント・マイノリティ』(幸福な例)でも触れている。

 リルケは、その後もプラハ、ケルン、パリ、そしてアルジェ、チュニス、エジプトを旅行し、翌年の1911年3月カイロからヴェネツィアへ到着し、ルナ・ホテルに投宿し、タクシス侯爵夫人と再会を果たす。同年の11月末には、ふたたびヴェネツィアを訪れ、ロマネリ姉妹を訪問している。

 1912年3月にはヴェネツィアを再訪し、グランド・ホテルに投宿。いったんドゥイノに立ち寄り、5月には再度ヴェネツィアに滞在。61日までポンテ・カルツィーナ775番地に滞在し、サン・ヴィオ、パラッツィオ・ヴァルマラーナには930日まで滞在している。7月中はほとんど毎日、当時パラッツィオ・バルバロに滞在していた女優のエレオノーラ・ドゥーゼと会っている。

 ここでエレオノーラ・ドゥーゼ(1858-1924)のことについて、少し触れておこう。彼女は、1858年生まれのイタリアを代表する大女優であった。両親が旅役者だったために4歳から舞台に立ち、当時フランスで人気最高だったサラ・ベルナールと人気、実力ともに二分する大女優として有名であった。同時期にやはり人気絶頂だったイタリアの作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(18631938)の作品の主役を演じ人気を博した。ヴェネツィアにおけるこのダンヌンツィオとドゥーゼの関係は、後述したい。

 その当時、ドゥーゼはすでに半ば引退(1909年には舞台を去っている)しており、リルケと会った年はすでに50歳を越えていた。「しかし、当時のリルケが、その運命に深く心を打たれ、その才能に見合った活躍の場をなんとしても提供してやりたいと願っていた人物を一人だけあげるとすれば、それは女優エレオノーラ・ドゥーゼをおいてほかにはいない」と、伝記作者レップマンは述べている。

 リルケは、かつてドゥーゼの舞台を見て感動し、後に彼女を想定して書いた韻文劇『白衣の伯爵夫人』を上演し、ドゥーゼを舞台に復帰させたいと画策したがそれは実現しなかった。

 

 1914年、リルケ39歳。この年の初めに、彼の前に一人の女性が登場した。ブゾーニの弟子でもあったピアニストのマグダ・フォン・ハッティングベルク、通称「ベンヴェヌータ」である。この「喜び迎えられた人」という意味の通称をもつ女性は、リルケの文章に感激し手紙のやり取りをするうちに、すぐに恋愛に発展したのである。しかし蜜月は長くは続かなかった。4月20日から5月4日までドゥイノの城に滞在した時にも同行し、その後ヴェネツィアに短い滞在をした後、彼女は一人旅立っていった。自らの存在が、彼の創作の邪魔になるのではという懸念からだったという。

 タクシス侯爵夫人をして、リルケはつねに自分の周囲に女性の雰囲気を感じることなしには、生きていくことができない人間であったともいう。

 この年の6月にはオーストリアの皇太子夫妻がサラエヴォで銃弾に倒れ、第1次世界大戦が勃発した。そして翌年5月にはイタリアが、オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告を行なった。1916年マリー・タクシス侯爵夫人は、トリエステのホテルのバルコニーから、あの思い出深いドゥイノの城が砲撃されるのを冷静に見つめていたのである。

 

 そして、すでに大戦が終わっていた1920年、彼は久しぶりにタクシス侯爵夫人からヴェネツィアへの招待があった。旅券の交付のトラブルで遅れたものの、ほぼ5年ぶりの再会であったが、かつてのように打ち解けた親密さで夫人に出会った。611日からホテル・エウローパへ投宿し、そのあとは夫人が持つパラッツィオ・ヴァルマラーナの中2階の部屋をリルケのために用意してくれた。とはいえ、彼にとってもはやヴェネツィアはかつてのほど胸のときめきを覚える場所ではなくなっていた。それは華やかだった上流社会は色褪せ、大戦前とはすべてが変わってしまったことに知ったからである。同じ理由から、若き日にあれほど憧れたドゥーゼが戻ってくるという知らせを聞くと、713日には慌ただしくヴェネツィアを立ち去ってしまうのだった。これが彼にとって最後のヴェネツィアとなり、以後亡くなる1926年までこの地に足を踏み入れることはなかった。