5)ロッシーニとスタンダールのヴェネツィア

 1797515日、ナポレオン率いるフランス軍がヴェネツィアに進駐して、ここに1000年以上続いたヴェネツィア共和国は崩壊した。このナポレオンによって滅亡された都市国家ヴェネツィアは、その後オーストリア支配となり、さらに再びフランス支配となるが、1814年ナポレオンの失脚にともない、ウィーン会議の結果再度オーストリア支配となる。そしてヴェネツィアは、ロンバルト=ヴェネト王国の一地方都市へと没落してしまったのである。

 このナポレオン失脚前後に、青年作曲家ジョアキーノ・ロッシーニはこのヴェネツィアで圧倒的な人気を得た。10代からオペラを作曲している彼は、1810年にサン・モイゼ劇場でのファルサ『結婚手形』でヴェネツィアでのデビューを飾り、新進気鋭の作曲家として注目された。さらに1812年には同劇場で『幸せな間違い』『絹のはしご』『成り行き泥棒』などのファルサを立て続けに上演しヒットさせ、翌年には、フェニーチェ劇場からの依頼で書いたオペラ・セリア『タンクレーディ』が大当たりとなった。引き続きサン・ベネデット劇場では『アルジェのイタリア女』を初演、サン・モイゼ劇場では『ブルスキーノ氏』を上演するなど、わずか20歳の青年は一躍ヴェネツィア中の人気作曲家となったのである。

 さらにミラノでも2作品を上演したが評判はあまり芳しくなく、フェニーチェ劇場での『シジズモンド』を最後に、1815年、ナポリのサン・カルロ劇場へと向かう。ここで、同劇場の支配人ドメニコ・バルパイアの依頼で『イギリス女王エリザベッタ』(1815)を書き成功を収める。バルパイアの愛人でもあった名歌手イザベラ・コルブランと知りあったのもこの時期であった。(後にロッシーニが、コルブランと結婚するのは周知の通り)こうした成功を携えて1816年『セビーリャの理髪師』、『オテッロ』、1817年『チェネレントラ』とつぎつぎに成功を収め、作曲家としての地位を不動のものとした。

 ロッシーニ好きのスタンダールがヴェネツィアを訪れたのも、ちょうどこの時期であった。後に彼は『ロッシーニ伝』(1823年出版)を著し、その中で「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」といって、彼を激賛した。ロッシーニのオペラを観た感想を、スタンダールはたびたび日記や旅行記にも記している。

 

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「マルコリーニがここでは『タンクレーディ』を歌っている。彼女の美しい声や手堅い演技の名残りが称讃をひき起こす。栄光を讃える瞬間の『アルマ・グロリア』は心に滲み入る。このオペラ『タンクレーディ』は、その歌詞を修正してみるだけの価値がある。」(臼井毅訳『イタリア紀行』新評論)

 

 ここに登場するマルコリーニとは、ロッシーニが好んで起用したコントラルト歌手のマリーア・マルコリーニ(1780-?)のこと。水谷彰良著『プリマドンナの歴史2』にある彼女の主な出演歴(P.166)によれば、確かにこの日サン・ベネデット劇場で、彼女によってタンクレーディが歌われている。

 

 スタンダール(本名マリ=アンリ・ベール 1783-1842)は、終生、旅する作家であった。とくにイタリアをこよなく愛した。わずか17歳でナポレオン軍に従軍し初めてイタリアを訪れて以来、以後数次にわたってイタリアに長く滞在した経験を持つ。その当時の旅の印象や見聞は、『1827年のローマ、ナポリ、フィレンツェ』(邦訳では上記『イタリア紀行』)、その増補版『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』(1826-27)、『ローマ散歩』(1829)などに記されている。

 今でこそ『赤と黒』(1830)、『パルムの僧院』(1839)などの名作で、19世紀フランスを代表する文豪といわれているものの、当初はほとんど売れずに、こうした旅行記や音楽家の伝記などのノンフィクションを執筆して原稿料を稼ぎ出していた。音楽家の伝記としては、この『ロッシーニ伝』の他に『ハイドン、モーツァルト、メタスタージオ伝』などがある。ただし、内容はかなり他の著書からの剽窃が多かったとされている。(研究者によれば、創作と剽窃は彼の日記などにも散見できるという)

 

 音楽好きだった彼は「白状すれば、完璧に美しいと思うのは、ただ二人の作曲家、チマローザとモーツァルトの歌だけである。」(ブリュラール伝より。高橋英郎・富永明夫訳『モーツァルト』掲載のロマン・ロラン序文・東京創元社)といい、ロッシーニは、それに次ぐ第3位の地位しか与えていない。ちなみにスタンダールは自らの墓碑銘に、有名な「書いた、愛した、生きた」という文字に加えて、「チマローザ、モーツァルト、シェイクスピア」の名も刻ませたかったらしいが、実現はしなかった。