2)サンドとミュッセのヴェネツィア

ジョルジュ・サンド            
ジョルジュ・サンド            

 音楽ファンなら、男装の女流作家ジョルジュ・サンド(1804-76)の名を聞けば、すぐにショパンとの関係を思い浮かべるが、なにせ男性遍歴の多かったサンドだから、ショパン(1810-49)のみならずフランツ・リスト(1811-86)も彼女の愛人リスト?に入っていた。文学ファンなら、当然、それ以前の愛人であった若き詩人アルフレッド・ド・ミュッセ(1810-57)との逃避行とも言えるヴェネツィアへの滞在を思い起こすだろう。

 

 ジョルジュ・サンド(1804-76)と言う男性名はもちろん筆名で、本名はオロール・デュパン。パリの質素なアパルトマンで、1804年に軍人貴族を父に持つ婚前妊娠子として出生した。18歳の時にデュドヴァン男爵と結婚して2子をもうけるが、その後別居し、多くの男性と恋愛関係を持ったことは有名だ。1831年に処女作を発表してから、パリの社交界に男装で現れ、その美貌と才知によって名声を博し多くの作品を残している。

 一方のアルフレッド・ド・ミュッセ(1810-57)は、貴族の家柄でサン・ドニに生まれた。若くしてその才能が注目され、19歳で詩集『スペインとイタリアの物語』を出版し、一躍パリ文学界・社交界の寵児となった。詩だけでなく戯曲、小説など多くの分野で活躍し、彼の名は戯曲『戯れに恋はすまじ』『ロレンザッチョ』や長編小説『世紀児の告白』などでよく知られている。

 二人が出会う前の18333月に、サンドは友人のサント=ブーヴに手紙で「ミュッセを私のところにお連れになるのはお断りします。彼は大変な伊達男ですので、わたしたちはお互いに気に入らないでしょう」と書いている。

 ところが同じ年の619日、パリのリシュリュー街104番地にあるレストランで、二人とも出版社が催す晩餐会に招待されたのだ。多数の文士たちが集うなかで、女性はただ一人サンド。そして最年少の参加者がミュッセであった。時にミュッセは23歳、サンドは6歳年上であった。偶然に隣席に座り言葉を交わしたが、その日はそれぞれが社交的な文学談義だけで、とくに惹かれあったというわけではなかったようだ。しかし、その後、サント=ブーヴやユゴーといった共通の友人を介し、次第に互いの文学を理解しあうようになり、出会って数ヶ月後には、二人は愛しあうようになったのである。

 二人の共通の話題は、もちろん文学や芸術の話題ではあったが、何よりも二人を結びつけたのはイタリアという土地であった。かのカサノヴァの『回想録』は二人の共通の愛読書であったし、イタリアの音楽や美術にも惹かれた。そしてサンドの気まぐれなイタリアへの旅の誘いが、のちに二人にとって大きな文学的な事件になろうとは思いもしなかっただろう。

 出会ってから約半年後の同年の1212日、大きな重い荷物を携えながら二人は、リヨン行の乗合馬車に乗り込む。そしてさらにマルセイユ行きの船に乗り換えた。偶然ではあったが、すでに『赤と黒』を書き、50歳にして少しは知られた作家となっていたスタンダールも同じ船に乗り合わせ、彼のおしゃべりにつきあわされることになる。言うまでもなく、スタンダールもイタリアを愛することにかけては人後に落ちない人物である。『ローマ、ナポリ、フィレンツェ』などの一連のイタリア紀行をものしていただけに陽気な会話とはなったが、若い二人にとっては甚だありがた迷惑だったに違いない。

 ともあれ、二人がイタリアの地に最初に降り立ったのは、古くから栄えた港町ジェノヴァだった。その後ピサにも立ち寄り、その後の行き先をコインで投げて決めた。それほど、彼らの旅は、目的地も決めていない行き当たりばったりの旅だったようだ。ローマかヴェネツィアか、10度コインを投げてすべてヴェネツィアだったのは、何か運命の糸に引かれたのか。ミュッセにとっては、若い頃からヴェネツィアは憧れの地であった。19歳の時には、まったく目にしたこともないこの街をこのような詩にしている。

 

『ヴェニス』

 赤いヴェニスには

 動く舟なく

 水に釣る人なく

   灯もない。

 

 一人砂浜に坐って

 大きな獅子は

 青銅の脚を晴れた空に

   持ちあげる。

        (後略)

          「世界名詩集大成2 フランスI」= 初期詩集(小松清・訳)

 

 余談ながら、晩年に親交のあった作曲家シャルル・グノー(181893)が、この詩を舟歌風の美しい歌曲『ヴェネツィア』として作曲している。

 

     アルフレッド・ド・ミュッセ
     アルフレッド・ド・ミュッセ

 疲れ果てて二人がようやくヴェネツィアにたどりついた日は、この年(1833年)の大晦日の深夜に近かった。サンドは、スキアヴォーニ河岸のアルベルゴ・レアーレ(現在のホテル・ダニエリ)に宿をとった。ミュッセはというと、同じホテルには泊まらずにサルーテ教会の向かいにあるホテル・エウローパ(現在のビエンナーレ事務局が入っているジュスティニアン館)に旅装を解いた。もうすでに、二人は互いの神経を苛立たせるような関係にあったのだろうか?しかし、翌日にはミュッセはダニエリに旅装を運ばせ、ようやく二人にとってのヴェネツィア滞在が始まった。二人は、足繁くアッカデーミア美術館に足を運び、多くのヴェネツィア派の絵画を堪能した。

 1834年。この年はサンドとミュッセのヴェネツィアにおける愛憎渦巻く年であった。

 1月には、まだ体調のすぐれないサンドを置いて、彼は憧れのバイロンのごとく、ヴェネツィアの夜の歓楽街を満喫した。夜は華麗なフェニーチェ劇場に通い、そのあとは娼婦たちと戯れる。ミュッセは一人で暮らすことを考え、幾つかの宿になりそうなところを探した。しかし、いずれも宿賃も高く、結局湿気のひどいみすぼらしい部屋を借りたがゆえに、病を引き起こしてしまう。今度はサンドがミュッセを看護する側になった。そのとき、以前に自分が診てもらった若いイタリアの医師ピエトロ・パジェッロを呼び、必死に看病する。

パジェッロの熱心な治療ぶりが、やがてサンドも信頼を寄せ、互いに惹かれあっていく。それを察した嫉妬深いミュッセもまた複雑な感情から、ますます放埓な行動を繰り返すようになる。彼の二人の間には諍いが多くなり、ヴェネツィアの冬の寒さよりも、もっと冷え冷えとした関係と化してしまう。のちにミュッセは、自伝的小説「世紀児の告白」で、この関係を文学に昇華させる。

 結局、ミュッセはサンドをパジェッロに託して、一人ヴェネツィアを329日に発ってしまう。ほぼ3ヶ月の、二人にとって愛憎入り混じったヴェネツィア滞在であった。サンドは、ミュッセをメストレまで送り、その後も彼が帰路に立ち寄った町へも頻繁に手紙を出している。

 サンドにとっては、ミュッセが発った後のヴェネツィアは、パジェッロとのより濃密な関係が築けるはずであった。確かに、彼と一緒にトレヴィーゾなど近郊の町を訪ね歩いたりもした。429日からは、サン・ファン広場近くの彼の家(サン・ファンテン3156番地=現1880番地)にも滞在している。まさにフェニーチェ劇場のすぐ裏手のアパートであった。しかし、蒸し暑い夏の季節が次第にサンドを苛立たせ、724日にはパジェッロを伴ってパリへと戻る。

 814日にパリに到着。同行したパジェッロは、出迎えたサンドの友人ブーコワランに預けられ、一人でホテルに滞在する。ミュッセとの再会によって、再び情熱を燃やすことになるサンドとの関係は、今度はパジェッロの心を苛立たせ、10月には悄然とパリを去ることになった。

 サンドにとって、20代から30代にかけての恋は、こうして次の幕へと引き継がれていく。

 またミュッセにとっても、このヴェネツィアでの二人の関係から生まれた小説「世紀児の告白」や戯曲「戯れに恋はすまじ」など、彼の代表作となって結実したのである。サンドもまた、ミュッセが亡くなった後になって、このヴェネツィア滞在を『彼女と彼』という作品に仕上げるのだった。

 

 さらに付け加えるならば、このヴェネツィア旅行から10年後に書かれたサンドの大河小説「コンシュエロ」も、この時のヴェネツィア滞在から想を得たものである。